令和の時代は「存在論的鬱」が主題になる時代②
平成の後半から、「存在論的鬱」というものに対する見方は、わずかではありますが、確実に変わり始めました。
それまでこの状態は、「贅沢病」「余裕があるから考えること」
あるいは
「考えすぎ」「弱さ」
といった言葉で片づけられることが多かったように思います。
しかし次第に、
それは本当に贅沢病なのだろうか?
むしろ、人間の根幹に触れる最も誠実な問いによるものではないのか。という発想が、現れ始めました。
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AIの登場が決定的にしたもの
そして令和に入り、ChatGPTをはじめとするAIが登場したことで、この流れは一気に加速したと感じています。
知識、情報、正解、効率――
それらはもはや、人間だけのものではなくなりました。
その結果、人間の比重は外側の能力から内側の領域へと、はっきり移行し始めています。
これから先の時代、多くの人にとって
• なぜ生きているのか
• 自分は何者なのか
• どの感覚を信じて生きるのか
といった問いは、一部の人だけのものではなく、誰にとっても避けられない主題になっている。
私はクライアント様に接する中で、そう見ています。
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自分の根源的感覚を生きることが「当たり前」になる
それは、特別な人だけが深い問いを持つ時代、という意味ではありません。
自分の根源的な感覚を生きることが、当たり前になる時代です。
存在論的鬱とは、何かが壊れた状態ではなく、自分の感覚をごまかせなくなった状態とも言えます。
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ゴールは「理解されて終わり」ではない
そして、この話のゴールは「苦しみが認められて嬉しい」という地点ではありません。
それは通過点にすぎず、本当の転換点は、その先にあります。
その唯一無二のあなたの感受性が社会のインフラになる
という転換です。
存在論的な問いを抱え続けてきた感覚、世界をそのまま受け取れなかった感受性、簡単な答えに満足できなかった違和感。それらが「欠陥」や「弱さ」ではなく、
社会を支える機能そのもの(仕事)として位置づけられていく。
自分で在ること、その表現が、多くの人の役にたち、それが誰かを助け、
それが一部の才能を持つ人に許された特別な状態ではなく、スタンダードになる時代です。
私は、この転換がすでに始まっていると感じています。
上田ハートケアカウンセリングユニティ
坂田
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